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初心者の「量より質」は間違い かっこつけて失敗する人の共通点は?

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昭和の時代、「質より量」という合言葉の元で大量生産されていた時期がありました。

 

そして平成・令和と時を経て、「量より質」という考え方が主流になりつつあります。

 

何かを学ぼうとしたとき、この言葉を真に受けて行動すると失敗することがあります。

 

私も昔その考えに縛られて「泥臭く努力をすることはカッコ悪い」と斜に構えていた時期がありました。

 

 

 

量か、質か。

 

初心者が何かを学ぼうとするとき、たとえば英会話などの語学習得やスポーツ、音楽などをできるようになりたいのであれば、この「量」と「質」のどちらを重視するかは明白です。

 

答えは「」です。

 

平成初期の頃から「質より量」の時代は終わったと言われ続けてきた世代にとっては、量をこなすことに嫌悪感に近いものがありますよね。

 

根性論や精神論の世界のように感じてしまう人もいるでしょう。

 

ですが、技術を習得する際に一度聞いただけでその道のトップクラスの人と同じことができるということは滅多にありません。

 

知識として得た技術を自在に扱えるようになるためにはどうしても量をこなして体になじませる必用があります。

 

 

だけはNG

 

上記のような主張をすると、「量をこなしても無意味」と反論してくる人がでてきます。

 

もちろん、「間違ったやり方」で量をこなしても成長はなかなか難しいでしょう。

 

ですので、ある程度の質は必要です。

 

 

なぜか今の時代、「ゼロかイチか」で物事を語りたがる人が多いですよね。

 

ですが、物事はそう単純ではありません。

 

量をこなすことは大事ですが、それは質を完全に捨て去っていいという意味ではありません。

 

正しい方法で、逐一修正を繰り返しながら量をこなすことで正しい技術を身に着けることができます。

 

 

「努力は恰好悪い」は最悪の風潮

 

私の周囲には泥臭く努力することを恰好悪いと考える人がとても多いです。

 

努力をせずに(している姿を見せずに)軽々とクリアしていく姿はたしかにかっこいいです。

 

ですが、努力をしていないように見える人は影で必死で努力しています。

 

「努力を周囲にひけらかす」という行動が恰好悪いと考えるのは好きにしたらいいですが、努力している人を馬鹿にしたり、自分自身が努力をすることを拒否してしまうのは間違っています。

 

 

努力は辛いこと?

 

私の知人で、「努力」という言葉にネガティブな意味を感じ取ってしまうという人がいました。

 

そういう人の多くは、学生時代に結果を出せなかったタイプの人です。

 

体育会系の部活動では罰として「努力を強いる」場面が存在します。

 

学校の先生も「罰としてノートの書き取り〇ページ」なんて言ったりします。

 

この結果、努力=罰と刷り込まれ、努力をすることは辛いことと思い込んでしまっているのだと思います。

 

 

ゲームにたとえたら考え方が変わる

 

RPGゲームをしたことはありますか?

 

ほとんどのPRGゲームでは、ボスを倒すためにレベル上げをしますよね。

 

レベル上げは多くの場合、物語を進めずに敵を倒し続けることになります。

 

「努力」に該当しますよね。

 

でも、ほとんどの人はそれほど苦痛に感じてはいないはずです。

 

ゲームデザインが秀逸だったということもありますが、その先のボスを倒すという強い目的があるからこそ努力も楽しめているのです。

 

 

現実でも同じです。

 

努力して自分を成長することは、目的を達成するための手順の一つであり、本来は楽しい物です。

 

努力はネガティブなものではありません。

 

 

最後に

 

特に初心者の段階では、「量より質」と意識している人の多くは圧倒的に量が足りていません。

 

量をこなすことや努力をすることはネガティブなものではありません。

 

本当に到達したい目的があるのであれば、その過程において同じことをたくさん繰り返すことは必要です。

 

もちろん、技術的に正しいことを繰り返さなくてはならないので質もある程度は必要です。

 

「量か質か」というどちらか一方を選ぶのではなく、量を重視しつつも質もある程度保つことを意識しましょう。

 

 

 

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