努力できない人は「俺には努力の才能がない」と言いますよね。
そして努力して成し遂げた人に向かって「お前は才能があっていいよな」と言います。
この「才能」を「生まれ持った能力」という意味で使っているのであれば、それは勘違いです。
努力できる人や何かを成し遂げた人は、そこに何の苦労もなかったわけではありません。
努力できない人は努力しない人
自分を「努力できない人」だと言っている人のほとんどは「努力しない人」です。
私はこの2つは大きく違うと考えます。
「できない」というのは理論上不可能なことです。
一方、「しない」というのは理論上可能ではあるものの本人の意思により避けることです。
努力できない人はまずいません。
努力をしたくない人はたくさんいます。
「努力したいけどしたくない」という人もたくさんいます。
そういう人は「努力できる人は努力という行動に何の苦しみもない人だ」と勘違いをしています。
その結果「努力できる才能」というパワーワードを使いだします。
努力できる人は才能ある人なのか
「努力できない人」は、努力を継続できるのは才能だと思っているようですね。
しかもその才能によって努力を苦にしていないのだと思っているケースが多いです。
努力できる人は才能があるのではなく、努力する方法を知っているだけです。
努力する方法?
目的をしっかりと意識して、それを叶えたいと本気で思うだけで努力できます。
文章にすると陳腐でいかにも意識高い系が言いそうな言葉ですが、これを「本気で」考えたら努力せずにはいられません。
というか本当に目的を叶えたくて仕方がないのなら、努力を努力と思わずに行動します。
苦痛がないわけじゃない
努力できる人も努力の過程で苦しみを感じることがあります。
当然です。
勉強でも練習でも、新しい知識を得る・新しいことができるようになるというのは言い換えれば「今できないことをできるようにする」ということです。
できないことに直面することは苦しいです。
失敗を繰り返せば自分の価値が下がるような気にもなりますし、「なんで同じところで躓くんだ」「なんでこれができないんだ」と自己嫌悪に陥ることだってあります。
それでも努力をできるのは、苦痛より「目的を叶えたい」という欲求が勝るからです。
たとえば「生活費が欲しい」という目的はほとんどの人が本気で叶えたいと思っていますね。
そしてそのための努力は多くの場合「仕事」です。
生活費を稼ぐために、過酷だったりつまらなかったり安月給だったりする仕事でもやれるんです。
だから「生活費が欲しい」くらい切実で明確に目的を持てるなら、かなり過酷な努力もできます。
そもそも何に対して努力をするか
上記の方法は「他人から強制される努力」には無力です。
そもそも他人から強制された場合、目的が自分の気持ちとズレていることが多いはずです。
やりたくないことをやり続けるのは大きな苦痛だけがあって利益が少ない状況です。
「努力できる人」は、自分で目的を作っているか、仮に他人から与えられた目的だとしても自分なりに脳内でやりたいことに変換しています。
最後に
できる人は努力を苦痛に感じていないわけではありません。
ただ目的がその苦痛を上回るから行動できるんです。
だから努力できるようになりたいのなら、行動そのものよりも目的をよく考え、本気でそれを叶えたいと考えられるように設定をしましょう。
今の時代、本気になることが恥ずかしいという風潮が強いです。
途中で諦めて(またはそもそも挑戦すらせずに)「いや、別に俺そこまで本気じゃないから」とへらへらと逃げるのならば、その程度のものしか叶わないでしょう。
私は(自分のやりたいことに対しては)努力できる人です。
もちろん「だから褒めて!」という意識はありません。
私自身がそれを望んでやっているのだから褒めることではありません。
ただ、努力しない人が「お前は努力の才能があっていいよなぁ」と言うのは違和感があります。
「才能」という言い訳を使って逃げている人を見ると「お前は何の努力もせずに努力した私と同程度の結果を出そうとでも思ってるの?」と感じます。
努力できる人は、それが意識的であれ無意識的であれ「目的」に対して強い気持ちを持っています。
「本気で目的を達成する気がない」つまり「面倒なことがあるのなら目的が叶わなくていい」と考えるのなら、面倒な努力ができないのは当然です。
念のため言っておきますが、私は「全ての行動に全力でぶち当たれ」という主張はしていません。
本当にやりたいことに絞り、それを叶えるときくらいは本気を出そうという主張です。
本気でやりたいことがなく、本気でやるつもりがない人は無理に努力しなくていいと思います。
それは現状を変えなくても「今の状況が(多少の不満はあるものの)ただちに影響はない」ということです。
だったら今の平穏で幸せな日々を堪能しましょう。