「努力しても結果が出ない」と嘆く人は多いです。
「努力しても報われない時代になった」なんて言葉がSNS上に飛び交っていたりもします。
この手の人たちは「苦労と努力を同一視する」という昭和の根性論から抜け出せていないように見えます。
「苦しんだら幸せが向こうからやってくる」は幻想です。
無意味な苦しみは不幸のスパイラルを生むだけです。
余計な制限をかけて無駄に苦労するのはやめましょう。
苦労と努力は違う
「頑張ること」「努力すること」を「苦労すること」と同一視する人は令和になった今でもかなりいます。
努力とは、目的を達成するために行動することです。
目的さえ達成できれば、努力に苦労は要らないんです。
また、「努力すること」そのものではなく、努力の結果として得られる目的こそが価値があります。
日本では昭和のような古き時代より「苦しんでいる人は偉い」という間違った価値観が蔓延ってきました。
目的を達成するための努力の中には苦労しなければならないものも確かに存在します。
理想とする目的がその人の現状から離れていれば離れているほど苦労する場面は出てきます。
本来、「そのくらい離れた目的に到達した」という事実こそが褒められるべきであり、次点として「そこへ向かって行動する前向きな姿勢」が称えられるべきです。
この「そこへ向かって行動する」が捻じ曲がった結果、「苦労している姿」を褒めたたえ、逆に「苦労せずに工夫と試行錯誤によって笑顔で目的に到達しようとする姿」を「ズルい」などと言い出すようになっています。
明らかに間違った価値観です。
同じ結果が出せるなら、労力がかからず、短時間で、安価でできるほうが優れているのは当然です。
「苦労しなくちゃ」という強迫観念が無意味な制限をつけている
努力と苦労を混同している人は、「苦労しなくちゃ努力じゃない」という強迫観念によって無意味な制限をつけるケースがあります。
例:便利な道具の禁止
「便利な道具を使うこと」を禁じる人は多いです。
仕事で毎日同じ作業をするのならマクロを使って自動化するほうが効率がいいですが、それを「ズルをするな」と否定されるというのはよく聞く話ですよね。
「得体のしれないプログラムにはリスクがある」というのはまだわかります。
ですがエクセルのマクロすら「ズルい」と言い出す人が多いのはクレイジーです。
例:外注・他人の助けの禁止
「人に頼ること」をズルいと感じる人はとてつもなく多いです。
たとえば当ブログは複数人で運営しており、さらに外注で記事を書いてくれている人もいます。
その話をすると「一人でやっていないなんてズルい」と言われます。
「同人活動」などでも外注を使っていると「自分でやってないなんてズルい」と言われたりします。
コントのネタを作家が書いている芸人に対し「自分で作ってないなんてズルい」なんて言いている人も見かけたことがあります。
撮影や企画を他人が考えているYouTuberに対し「自分でやれよ、ズルいぞ」なんて呟いている人もいました。
自分一人で何かを成し遂げるのは確かにすごいことです。
ですが、「一人でやらなくちゃいけない」というのは無意味な制約です。
外注であれば対価を払っています。
友人・知人が無償で手伝ったとしても、それはお互いの人間関係によるものなので外野が文句を言う権利はありません。
※私自身は友人・知人だから無償で手伝えと言われるとイラっとします
平等??
「平等でなくてはならない」という異様な強迫観念を持つ人は多いですよね。
平等って何でしょうか。
「道具を持っていない人もいるんだから道具を使ってはならない」が平等だと思いますか。
「人に頼れるほどの人脈も信頼もない人がいるんだから一人でやらなくてはならない」が平等でしょうか。
「道具を持っていない人」も「人脈がない人」も「知識がない人」も「金がない人」も、全てはこれまで努力を怠っていただけですよね。
一番下に揃えることが平等ではないです。
最後に
苦労と努力を同一視すると、必要以上に苦しくなります。
苦労せずに目的に到達できる道があるのならそのほうがいいんです。
自分のしている努力の苦しい部分が無意味な制限でないか考えてみましょう。
無意味な制限は単純に目的地までの遠回りになっていますし、さらにはストレスの源にもなりかねません。
ストレスはモチベーションを削ります。
モチベーションが減れば努力する気もなくなります。
やりたいと思って始めたことも、だんだん嫌になって辞めたくなってしまいます。