私は幸運にも現在経済的には困っていません。
そのため、経済的に困窮している人から助けを求められることがあります。
それ自体はいいんです。
私も困っている人に手を差し伸べるつもりはありますし、助かりたいと思っている方の手助けができるのなら嬉しいです。
ですが、「困っているんです。お金ください」はお断りします。
そうすると直前まで涙を流しそうな表情で下手に出ていた人が豹変し「冷たい最低な人だ」と糾弾しはじめます。
稼げる方法を聞きに来る人に「教えてもいいけど稼げるようになったら対価を払ってね」と言うと顔を真っ赤にして「詐欺師」呼ばわりしてきます。
なんなんでしょうね、あれ。
「困っているのでお金ください」という強請り
経済的に困窮している人が助けを求める際、「如何に自分が経済的に困窮しているか」を切々と語り、「だからお金をください」で〆ます。
そしてお金を援助しない人に対し「何て冷たい人だ」と捨て台詞を吐いたりします。
なぜでしょうか。
なぜ無償で援助をしないといけないのでしょうか。
たしかに経済的な困窮は辛いです。
一方の私は少なくとも「働くのを辞めても数年は食事に困ることがない」程度にはお金があります。
だから何なんでしょうか。
経済的に困窮している人の中には、病気やケガなどののっぴきならない事情でそうなった人もいるかもしれません。
それには同情します。
ですがそれは無償で助ける理由になるのでしょうか。
「ノブレスオブリージュ」を持ち出す人もいます。
でも、それは困窮した側が言う言葉ではないような気がします。
と、ここまで言うと私が人助けを一切しない自己中心的な人に見えますね。
でも、私も助けるつもりはあるんです。
そして助ける方法もあるんです。
私は助かりたい人の手助けがしたい。でも・・・
私は経済的に困窮している人を手助けする気持ちがあります。
そして、私は「会社に所属せずに生活費を得る技術」を持っており、さらにはそれを人に教えることが可能です。
だから経済的に困窮している人が、経済的な問題を解決する手伝いはできます。
ただ、行動には対価は必要です。
助けるという行動であっても対価を求めるのはおかしくはないはずです。
助けることに対価を求めるのは冷たいのか
助けるのに対価を要求すると、罵詈雑言を浴びせられることがあります。
「詐欺師」「守銭奴」「人でなし」「足もと見やがって」などなど。
これらは私が直接(またはメールやLINEで)言われた言葉です。
しかもこちらから「お前困ってるだろ?助けてやろうか?」と迫ったわけではありません。
相手から助けてくれと言ってきて、「助かる方法を教える。だから最終的に助かったら対価をちょうだい」と言っただけです。
私は霞を食べて生きているわけではありません。
使いきれないほどのお金が自動で集まってきているわけでもありません。
人に「会社に頼らずお金を稼ぐ方法を教える」というのは片手間でできるほど簡単なことではなく、それなりの時間が必要です。
結果が出るまで付き合い、その結果のいくらかを対価として要求しているんです。
また、きちんと稼げるようになるにはその人に適した成長方法を考える必要があり、相手と直接喋っている時間以上の時間が必要になります。
もちろん、経済的に困窮している人に金銭での対価を払う余裕がないことはわかっています。
だから最初に金銭を要求したりはしません。
結果的に稼げるようになったら、その一部を私に還元して欲しいと要求しているんです。
もし稼げなかったら私は一円も要求しません。
この考えはそんなに人として間違った行動なのでしょうか。
最後に
私は経済的に困窮している人を助けたいと思っています。
でも、ただお金を与えるだけの無償の援助はしません。
※他の人がそれをすることを否定しているのではなく、私自身はしたくないという意味です
私は稼ぐ方法を教えることで経済的に助けることができます。
この方法は才能が要らないので誰にでもできますが、片手間でできるほど簡単なことではありません。
だから数か月から半年程度、その人が稼げるまで成長できるようサポートしなくてはなりません。
当然こちらにも時間と労力がかかります。
それだけのことをするのですから、結果が出たら対価が欲しいです。
助けることに対価を求めるのはそんなに間違ったことなのでしょうか。
対価を求めるのは詐欺に相当するのでしょうか。
私は守銭奴なのでしょうか。