「努力をする方法」はネット上にも本屋さんにも溢れかえっていますね。
にもかかわらず自称・努力できない人はたくさんいます。
自称・努力できない人に限って、この手の「努力する方法」を理解せず「要は気合で頑張れってことでしょ?」と的外れな結論をしたり顔で口にします。
そうやって思考停止で根性論だと決めつけているから、行動できないんじゃないですかね。
努力する方法の大半は「どうやれば根性のない人が行動できるか」が焦点
自称・努力できない人はちゃんと話を聞かないので気付いていないのでしょうが、「努力する方法」の大半は根性で強引に行動する以外の方法です。
努力というのは何らかの目的を達成するための行動のことです。
目的が達成できるのであれば、その過程は問われません。
一昔前は努力をマラソンに喩える人がいましたが、今はそうではありません。
まず、マラソンと違って人によりゴール地点が違います。
そしてルートの設定もなく、移動方法についても規定はありません。
どんな道を通っても結果的に自分の行きたい場所に行ければいいんです。
「最適な努力」は人によって・目的によって違う
昭和の時代には、「気合と根性で地べたを這いつくばってでもやり遂げる」が美徳とされ、努力とはそういうものだと思われていました。
また、今でもまだ「学校」では基本的に誰もが同じ教室で同じ授業をして同じ宿題をこなすというイニシエの手法を取っています。
しかし今の時代、人が成し遂げたいもの(=目的)は多種多様です。
目的が違うなら、努力の方法だって違います。
さらに目的が同じであっても、そこに到達すべき期日も注げる労力もベースとなる基礎力も人ぞれぞれ違います。
だから努力の方法も人によって最適解が違うんです。
「もう一刻の猶予もなく、とにかく結果を出さなければならない」のであれば効率を最優先し心をすり減らしてでも全力疾走が必要かもしれません。
一方「時間はかかってもいいけどお金だけはかけたくない」というのであれば無料の情報だけで思考錯誤しながらやっていくことになるでしょう。
※時間がかかれば生活費の名目でお金が減るのでのんびりしすぎるのも問題です
上記の2つは極端な例であり、実際にはこの2つのどちらかを選択するのではなく間にグラデーションのように選択肢があります。
どの方法でも絶対に外せないもの
それは「目的」です。
「どうなりたい」から努力するのか?ということです。
自称・努力できない人の多くはこの話をすると「意識高www」と嘲笑します。
ですが、どうなりたいのかわからないのに努力をすることこそ嘲笑モンです。
それって、意味もなく庭に穴を掘って埋める作業を繰り返すことと変わらなくないですか?
目的もなく努力するのは、ゴールがない状態で走ることと同じです。
走ることそのものが目的でない場合、目的地が設定されていない状態でがむしゃらに走っても目的地には辿り着きません。
なんせ目的地を決めていないんですから。
もちろん「一見無駄に見えた努力が紆余曲折を経て自分の糧になる」ということはあります。
ですがそれは誰がどう考えても遠回りですよね。
しかも実際に糧になるかどうかは不確実です。
目的を決めてそのために努力する場合とどちらが高確率なのか、誰でもわかるでしょう。
最後に
努力は気合がなくてもできるタイプのものがあります。
きちんと目的を設定し、自分にあった努力の方法を用いれば、根性で強引にやるよりもずっと苦しまずに行動できます。
努力できないと嘆いている人は、「目的を持つ」「自分にあった努力の方法を見つける」という二つをまず意識してみてはいかがでしょうか。
やりたいことがないならやりたいことを見つけるために色々やってみる、そこまでする気にならないのならいっそ現状に満足して楽しむという方向にシフトするのがいいでしょう。
努力は必須ではありません。
「努力している人は偉い・努力していない人は悪い」というのは間違いです。
もちろんやりたいこと・なりたいものがあるのに努力しないで嘆くのはアホです。
でも目的がないのなら努力しなくていいです。
目的があって努力の必要が出てきた段階で、自分にあった努力の方法を探しましょう。